本稿は私が仕事をする上で利用しているフレームワークを文章化したものである。これまで口頭でしか周りに紹介したことがなかったが、その際ありがたいことに、多くの方から好評をいただいていたため、改めて体系化し、記事として投稿することとなった。
この記事では仕事を対象としているものの、例えば経営論や組織論、経済論といったものには該当せず、ただひたすら仕事にまつわる物事を特定の視座からプラグマティックにモデリングした結果を書き並べている。そのため、おそらく一般的な体系とは異なる意味で用語を使用していたり、またそれらとの齟齬を多分に含んでいると考えている。この記事はどこまでを射程として含んでいるのか、それは私自身も把握できないことだが、何かのヒントになれば幸いである。
仕事に限らず、あらゆる物事はいかようにでも捉えられ、定義できる。そのダイナミックな営みは継続されるべきものだが、かといって常に揺れ動いていては何も決めることができない。なのでここでは、どのように定義することが有益であるか、また有益であったかという視点で仕事へ仮説を与えたいと考えている。そのために私は、仕事とは、他者からの期待への応答としての責任を引き受け、全うすることであると唱えてみたい。
例えば、ある人物が何らかの社会的問題を発見し、その責任を引き受け、全うしようとしている状況を考える。多くの場合、その問題の規模は巨大で、専門性が高いため、一人で引き受けるには困難を極める。例えばよくある問題領域としては、経営、企画、営業、技術、経理、人事などがある。また取り組もうとしている問題固有の専門知識を要求されるケースもあるだろう。これに対応するため、それぞれの専門性のある人物と共に組織を構築し、大きな責任を個々人に分配して、引き受ける。これが会社の大まかな構造である。
会社の事業がうまくいけば、責任を引き受けた結果が貨幣へと変換されるだろう。それは組織のメンバーへ給与として分配されたり、次のアクションのための再投資に回され、さらなる利益追求へと向かうことになる。ところで、会社は経済活動を行う上でより利益を拡大し、非連続的な成長を求められるわけだが、どのようにしてこれは達成されるだろうか。もちろん現状維持では何も変わらないどころか、多くの場合は衰退になるだろう。効率化・クロスセル・アップセル・事業拡大など、具体的なアプローチは様々にあるが、つまるところ、会社はより大きな社会的責任を引き受ける必要が出てくる。では、どのようにすればそれを引き受けることができるか。もちろん効率化を推し進める選択もあるが、それでも限界はある。その限界においてより多くの責任を引き受けようとするならば、より多くの人間へ責任を分配するしか方法はないだろう。このとき新たな雇用が創出され、組織が拡大し、より大きな責任を引き受けて、利益を拡大する。このループによって会社は経済的成長を続けることができる。
よりミクロな視点で考えてもよいだろう。例えばある社員がタスクを大量に抱えていたとする。そのタスクの量はあまりにも多く、一人で捌き切ることが難しい状況である。この問題を解決するためにはどういったアプローチがあるだろうか。例えば効率的にタスクをこなすための方法を考案し、実践するという、業務効率化としての方法もあるだろう。しかし、もしこれがすでに行われており、他の社員も同様にタスクを大量に抱えていたり、そもそも多忙で業務効率化に着手できないような状況だとしたらどうだろうか。こうした状態が慢性化しているのであれば、タスクの分配先を新たに用意し、組織の余裕を回復するしか方法はないだろう。つまりこれが採用である。言ってしまえば、採用とは会社が抱えている問題と、その問題を解決できるかもしれない能力を持った人間とのマッチングである。こうして人材を獲得することで、問題解決できる総量が増加し、組織はより大きな責任を引き受けられるようになる。
ここで言いたかったことはシンプルである。仕事において組織がより大きな社会的責務を引き受けようとする限り、組織へと分配される責任も増え続けるため、組織も同時に拡大していく必要がある。仕事とは、この拡大のループにおいてより大きな責任を引き受けるための経済的営為であり、ここにおいて会社は、引き受けた責任を個々人へ分配するための装置となる。
組織内の振る舞いにおいては、究極的には責任を引き受けて全うすればよいだけであり、残りはそれを遂行するための個別具体的なHowでしかない。なのでここでは、その入り口となる採用にフォーカスを当てて考えてみたい。上記のように仕事を仮定した場合、組織における採用とはどういったものになるのかを整理する。
といったものの、結論は非常にシンプルであり、採用とは、組織は抱えている(抱えようとしている)責任を全うできる(できそうな)人物を獲得し、問題解決の総量を増加しようとする営為である。そのため採用において重要になるのは、その人物がどういった人なのかを知ることに尽きる。これには能力としての側面はもちろん、人柄や価値観といったものも含まれる。とにかく、その人が持続的に責任を全うできるのか、これを検討したいのである。
ところで、採用における学歴とは一体どのような役割を持つであろうか。実のところ、学歴とは単なるラベルにしかすぎず、本質的な情報にならないことが多い。なぜならば組織が欲しい人材とは、組織が持つ責任を引き受け、全うできる人物である。もしその責任を引き受ける前提条件として、特定の学歴や資格といったものが必要でないならば、学歴がいかに空虚な肩書きであるかがわかるはずである。
しかしなぜ、特に新卒一括採用の文脈において学歴が多く参照されるのかと言えば、それは優秀な人物は学歴も高いことが多いという仮説に基づいているからである。例えば学歴フィルターというものは、主に規模が大きく、より多くの人材を獲得する必要があり、かつ多くの求職者が集まってくる組織の足切り戦略として採用されやすい。理由は主に二つある。一つは、多くの求職者を一人ひとり丁寧に見ていく時間を取れないという点。もう一つは、新卒一括採用は基本的に見込み採用になるという点である。後者はつまり、個々人を深ぼったとしても、実務としての経験がない、または浅いため、実際にどれくらいの責任を引き受けてくれるかの判断を経験ベースでできないため、現状はっきりしている学力という指標と先の仮説を踏まえて、一つのパラメータとして参考にされるケースがある。
しかし、現代において学歴至上主義の価値観は徐々に変化してきている。特にベンチャー企業においては即戦力が求められることが多いため、業界や職種にもよるが、判断軸として学歴をほとんど考慮しないケースも珍しくない。他にも人材の多様化や働き手の減少など、背景は様々にあると思うが、少なくとも学歴が就職において決定的に重要な肩書きであるとは言えない時代になってきているのは確かだろう。
学歴が重視されない世界とは、果たして労働者にとって優位なものであろうか。全くの逆である。なぜならば、その組織において問題解決を行える能力や経験を示さなければならないからである。学力には得意不得意はもちろんあるものの、努力次第である程度はできるようになるが、個々人が持つ能力や経験とは、学力のように明確に決まった指標はなく、それがどういったものであるかを何らかの指標を持ち出して示さなければならない。これは勉強よりも抽象的な取り組みであり、解釈によって評価が多分に揺れもする。果たしてこれが学歴重視の世界よりも簡単なことと言えるだろうか。しかし、ここではその問題についてあえて真っ向から答えたい。なぜなら本来その方が、仕事においてより本質的だからである。
労働者視点の採用とは、組織が取り組む責任の引き受けと拡大のサイクルに、どのようにして自己を参加させるかという問いに変換できる。より簡単にいえば、いかにして組織が持つ責任の一部を引き受けるかということである。そのために必要なことは二つある。一つは、自己がどういった人間であるのかを知ること。もう一つは、組織が抱えている問題を知ることである。つまり、自己がどういった性質があるかを知ったうえで、自身が引き受けられそうな社会的問題を見つけ、全うすることである。
自己を知るとは、どういったことができるかといった能力的な問題も含むが、同時に自らの感性を知ろうとすることも推奨したい。例えば、自分にとってどういったことに喜びや苦しみを感じるのか。どういったものを欲し、嫌っているのか。どういったことに関心があるのか。情熱があるのか。そして特に重要なのは、どういったことに楽しみを覚えるのかである。
『論語』にて孔子は、「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」と語っている。つまり、何かを知っていたり好きでいることよりも、楽しんでいる者の方がうまくやれるということである。その理由は非常に単純である。楽しいことは楽しいから自ずと取り組むので、これ以上の理由を必要とすることなく自然と上達するのである。楽しさは最高の動機づけであることを、二千年以上前に孔子は見抜いていたのである。
なぜこうした感性を知ることが重要なのかと言えば、それはそうした自己の性質を踏まえ、どのように社会と関係づければよいかの指針になるからである。先の楽しさでいえば、楽しみを覚えることは、そこに関係する何らかの能力が秀でている可能性が高い。あるいは、その楽しむという感性を用いて、より能動的に取り組める可能性が高い。この領域の責任を引き受けることは、仕事をうまくこなす上で強力な武器になり得る。なぜならば、能動的に責任の範疇を広げてくれる人材は組織において貴重だからである。逆にネガティブな感性であれば、どういった環境が自分には向いていないのかを把握するための指針になる。能力基準の判断は実務として必要になるが、一方で感性基準の判断は能力も一部含みつつ、カルチャーマッチまで射程を含むことができる。もし自らが見出した感性と社会的要求の間に関係を見出すならば、それはWork Life Balanceではなく、Work as Lifeとなるだろう。
もちろん、これらが常に一致するとは限らないし、時には諦めが必要になる時もあるだろう。というのも、この戦略は自己の生まれ持った性質や環境、時代の運に強く依存するため、人によっては機能しないケースも存在する。しかしそうであったとしても、今回のテーマから少し逸れるが、自己を知り、その性質を引き受けることは、今後の仕事においても、また仕事の文脈を超えて人生を豊かにすることを強調して良いだろう。
仕事についての仮説や分析とともに、どのような戦略が考えられるかを述べていたものの、こうした考えは一つのものの見方に過ぎないことは述べておきたい。
例えば、世の中には無数に仕事が存在するわけだが、法に触れない限りは、どの仕事を引き受けてもよい。だから上記で述べたように、楽しさを基準に引き受けてもよいし、より大きな富を得られるような仕事でも、自分にとって楽な仕事でも。職業に貴賎はないので、自己にとって適当な仕事を選んでいただきたい。
もちろんどういったスタンスで仕事に取り組んでもよい。自分自身の楽しさを最大化できるような責任を探してもよいし、より大きな責任を引き受けるために自己研鑽しても、学歴採用という戦略の穴をついて学歴を追求するのでも、ましてスタンスなんて持たずに仕事さえ引き受ければ何でもよいという考えもある。すべては自己と社会の関係づけにおける程度の差でしかなく、どれが正しいという話ではない。
また多くの場合、人は経済的な要求に従わなければならないが、別に正攻法で攻略しなければならないものでもない。真正面から向き合って成長を目的として振る舞ってもよいし、あるいはずる賢く逃げて、結果として成長できるのかよくわからない状況へ自分自身を賭けに出してもよいだろう。極論を言ってしまえば、罪を犯さず納税をして(願わくば倫理的に、そして幸福に)生きていればそれでよいからである。
結局のところ、自らの選択を振り返ったとき、そこに納得があればそれでよいのである。自己の充足と社会を含めた他者との調和をいかに両立するか、仕事とはその一つのあり方でしかない。どうやって自己のために経済を使い、折り合いをつけるか。ここまでの文章は、その一つの例に過ぎないのである。