過程において自己を疑い尽くし、その先で自己に出会い、それが真に自己自身であったという信へと転ずることへの信をもって生と為す。Through: philosophy, music, photography, literature, etc.
ボンヘッファーの成人性、つまり「神の前で、神とともに、神なしに生きる」という逆説的な言葉から彼の思想を読み直す。そのうえでボンヘッファーが提示する世界観をどのように生きるべきかという実存的態度を模索する。
鴨長明が『方丈記』の隠遁生活において描いたものとは、悲観的な厭世観などでは決してない。それは諸行無常な世の中や、自分自身の矛盾や至らなさを解決せずにそのまま保留できる強さである。
フロムは愛を技術として捉えるが、それは倫理による他者のへ配慮とエゴイスティックに他者を犯しうる冒険との表裏一体のうちに行われる営為である。後者の側面は、倫理という名の禁止を解除するバタイユのエロティシズムへ、さらにその反転としてナンシーの説く〈触〉と「ノリ・メ・タンゲレ」へと繋がっている。三者三様の切り口で見る愛は、思うに信と疑の反復の最中で、それぞれに立ちふさがる語り得ぬ何かを見ているのではないか。
ラ・ロシュフコー『箴言集』は全体性を帯びた書物であるが、その自覚なしにこれが真実と疑わない人々がある。ここでは『箴言集』の概要を説明しつつ、その形而上学的解釈と脱構築を試みる。その果てに見えたものは、自己愛とは、自他を愛することで自身を生成する運動であり、我々はその影を追うことしかできないことがわかる。『箴言集』はこの捉えがたい自己愛を埋めるよう強要し、読者の感覚=方向(サンス)をもって挑発している。
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歩いていた あなたは雨と ヘッドライトにさらされて雑踏から 遠ざかる背中へほほえんで 伸ばした手の 拳銃私たちは永遠……
2022年7月および12月、2023年1月に撮影。