空っぽにギターを弾く。練習・瞑想・禅。

Published: 2025-12-16Updated: 2025-12-16

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練習が嫌いだった。

ギターを練習していると、自分自身の無能さや不出来さを痛感する。メトロノームが一拍一拍を刻むたび、段々とついていけなくなる自分自身を目の当たりにすると、どうしようもなく腹が立つ。楽しめないこの状況に、私自身に。

かといって練習をやめればよいのかというと、そういうわけでもなく、なぜか曲は書きたい性分なので、その時が訪れると、結局また練習をすることになる。そうして何も変わっていない自分自身と相対することを繰り返す。そして今、また練習をしている。

ところが、ふとしたことだが、ここ数日は苦しむことなくギターを弾けるようになっていた。特別何かを変えたつもりはなかった。いつも通りメトロノームを鳴らして、目を閉じ、ひたすらそこに合わせる。これだけである。ただ違うことがあるとすれば、このとき確かにギターを弾いているが、あえてそう意識しないようにしていた。メトロノームに合わせて、手を動かす。結果として、私はギターを弾いている。

こうしているとだんだん、私はこの世界から消えてしまっているかのような感覚になる。メトロノームの音と、左手の押弦、右手にはピックが弦をはじく感触、アンプから流れる音がぼんやりと外にある。でも内側には何もない。ただカチカチと刻み続けるメトロノームが世界を支配している。私の代わりにメトロノームがギターを弾いているかのような。

そうしていると、いろいろな考えが浮かんでくるときがある。今何をしているのか、なんでこんなことをしているのか、早くレコーディングをしたい、今のは上手く弾けた、今度はだめだった、……。そんな時は、メトロノームの音を聞いたり、手の疲労感に意識を向ける。そうすると自ずと雑念は消えている。

そんなことを繰り返し、最後はメトロノームを止めて、好きなようにギターを「弾く」。そこで初めて、自分が楽しんでいることに気づく。私は練習をしていたのだと。

練習と瞑想

これに限りなく近い感覚を知っていた。瞑想や座禅である。座禅を組んでいるとき、呼吸に意識を向けて、内側や外側で起こることを放っておく。気が散ったらまた呼吸に意識を戻す。この繰り返しである。

どうしてこれらが同じように感じられるのか、少し考えてみたい。

マインドフルネス

ジュディス・S・ベックが上梓した『認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで 第3版 -ジュディス・ベックの認知行動療法テキスト』にて、マインドフルネスについて触れられている。

 専門家のコンセンサスが得られたマインドフルネスの定義の一つに「開かれた姿勢で,受容し,好奇心のこもった眼差しを向けつつ,目の前の体験に注意を向け続ける(Bishop et al., 2004)」がある。マインドフルネスでは,周囲の出来事(誰と話をするなど)か,内面の出来事か(思考,感情,身体,心の感覚など)によらず,「今ここ」で起きていることに注意を向ける。そして,何が起きていても決めつけない態度でそれを体験しようとする。(…)
 マインドフルネスは,思考との付き合い方を変える手助けをしてくれる。思考と関わるときに,たとえばその妥当性に疑問を投じる代わりに,そうした思考を(決めつけや価値判断をしないで)自然に来ては去るままにする。役に立たない思考や苦痛な内的刺激を排除することが目標なのではない。(…)代わりに,マインドフルネスは,内的体験を検討したり変えようとしたりはせず,決めつけずに観察して受容することを手助けしてくれる。つまり,「今,この瞬間」に注意を向けつつ,同時に,開かれた姿勢で,受容的で,好奇心を向けられるようになる。

(ジュディス・S・ベック著、伊藤絵美・藤澤大介訳『認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで 第3版 -ジュディス・ベックの認知行動療法テキスト』、星和書店、2023年、p.386-387)

上記を踏まえ、私はマインドフルネスを「自分の内外で起きたことを経験しつつ、解釈しない営為すべて」と広義に捉えている。

ところで、この解釈をしないというのは非常に難しい。仮に何らかの出来事を認識し「これには解釈をしない」と決めてかかった時点で、それはすでに解釈をしている。

そのため、瞑想などのフォーマルなマインドフルネスでは、「瞑想のための時間をしっかり取り(5~60分),静かな場所で,特定の体験(呼吸,身体の様々な部分,動作,思考,感情,周囲の様子,音など)に注意を向ける。対象から注意が離れてさまよってことに気づいたら,それをありのままに受け入れ,体験へと注意を向け戻す」(同上: p.389)といったことを行う。つまり、何らかの物事に注意を向け続けること。これが基準として機能し、そこから離れ、それ以外のことに解釈を行ったと認識したとき、それを自覚し、再度集中する。

例えばこれをギターの練習に当てはめるならば、私が集中していたものはメトロノームや手の感覚であり、これが基準として機能していた。注意が逸れればここに戻ってくればよい。

こうした行為によって、「客観的に思考・感情を捉える,自己の思考・感情に巻き込まれない,といった「距離をとる(distancing)」あるいは「脱中心化(decentaring)」」(北川・武藤 2013: p.42)ができる。つまり、自分から距離を取り、思考や解釈そのものを「見る」のである。

ギターの練習における、私が「この世界から消えてしまっているかのような感覚」がおそらくこれである。淡々と今ある世界を受け入れる。このとき私は消えている。

ここまでマインドフルネスについて述べてきたが、この考えは何も新しいものではない。例えば仏教では数千年も前から実践されてきたことであり、それらから宗教性を排除し、科学的に検討・体系化したものがそれである。なのでここからは、マインドフルネスのルーツの一つとして考えられる禅の角度から検討したい。

鈴木大拙の『無心ということ』では、無心の意味を「雲無心にして岫(くき)を出て、鳥飛ぶに倦(う)んで還ることを知る」と例えている。雲が何の意図を持っていない様子を無心として使っているが、これが詳細に示しているであろう「宗教生活としての受動性」から引かせていただく。

 他方、受ける、向こうから授けるのを受ける、すなわち受動性というものが宗教にはあるのです。この受動性がいろいろな型となって、真宗には真宗の、禅宗には禅宗の、キリスト教にはキリスト教のそれぞれの型がある。その型で受け入れるが、ちょっと見たところでははなはだ違ったようでも、その本を探して来ると心理学的に受動性というものがいずれの宗教にもある。これをインドの言い現わしかたでいえば、「本性清浄(ほんしょうしょうじょう)」ということにもなります。この清浄とは、ただ奇麗であるとか、大空の雲のない姿で、からりとして何もないという、ただそれだけを意味するのではなくして、そういう姿でないと、そこへはものがはいってこないのです。これは受動性をたとえたのであります。受動性は、つまり絶対的包摂性といってもよいのです。
 塞(ふさ)がったところは、すでに何かものがあるので、そこでは受動が可能でないのです。何もないから入れられる。自分に何かあると思うからはいって来るものに対して抵抗する。宗教生活にはそういう抵抗性を嫌うのです。ぎしぎしいがみ合っては本当の宗教的生涯というものが出て来ないのです。絶対包摂・受動性・無抵抗主義とはある一面では同じ意味を持っている。

(鈴木大拙『無心ということ』、角川文庫、1955年、p.15、ルビは()の中に記載、圏点は太字にて表記)

この受動性が「雲無心」である。風が吹けば流される雲のよう、あるがままに受け入れる。そうした空っぽさや受容性を無心と捉えている。

これはマインドフルネスと共通するところがあるが、大きな違いは宗教的生活へと帰着させるか、ストレスや心理的病理の解消を目的とするかに思える。

また表現にも違いがある。禅では「無心」や「自身の空っぽさ」を肯定するが、そういった表現はマインドフルネスの文脈では好まれないように思う。あまりに抽象的で、多様に解釈できてしまうからである。しかし、私個人としては「空っぽ」という表現は感覚にしっくりくるものがある。

空っぽにギターを弾く

結局、私がしていたことは、空っぽにギターを弾くことだったらしい。上手に弾く必要はない。ただ在るがままに、メトロノームに促されて手が動く。この受動性が、自分にとって心地よい練習の在り方だった。

参考

  • ジュディス・S・ベック著、伊藤絵美・藤澤大介訳『認知行動療法実践ガイド:基礎から応用まで 第3版 -ジュディス・ベックの認知行動療法テキスト』、星和書店、2023年
  • 北川嘉野・武藤崇(2013)『マインドフルネスの促進困難への対応方法とは何か』心理臨床科学、第3巻、第1号、p.41-51
  • 鈴木大拙『無心ということ』、角川文庫、1955年

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