愛、倫理、エロティシズム

Published: 2026-05-10Updated: 2026-05-17

技術としての愛

エーリッヒ・フロムが語る愛は単なる感情ではない。むしろ能動的に他者へ行使する技術である同時に、他者とは異なる自律した自己自身を保ったままで、他者と融合しようとする実存的態度である。そのうちにある要素として、配慮・責任・尊重・知が挙げられているが、これらは要するに、愛する他者へ積極的に気に掛けること、他者から求められたことへ自発的に応答すること、ありのままの他者を認め、知ろうとすることである。

これらの要素のうち、知だけが明らかに異質な性質を持っている。

 他人を知ることと愛の問題とのあいだには、もうひとつ、より根本的な関係がある。 孤独の牢獄を抜け出して他人と融合したいという基本的欲求は、もうひとつのすぐれて人間的な欲求、すなわち「人間の秘密」を知りたいという欲求と密接にかかわっている。(…)私たちは自分のことを知っている。だが、どんなに努力しても、ほんとうの意味で自分を知ることはできない。また、私たちは友人のことを知っているが、ほんとうには知らない。なぜなら、私も友人もただの物ではないからだ。私たち自身の、 あるいは誰か他人の、存在の内奥へと深く踏み入れば踏み入るほど、理解というゴールは遠ざかっていく。それでも私たちは、人間の魂の秘密に、つまり「その人」そのものであるような、人間のいちばん奥にある芯に、到達したいという欲求を捨てることができない。

引用: エーリッヒ・フロム『愛するということ』(鈴木晶訳、紀伊国屋書店、2020年、p.51-52)

上記のように、知は能動的な愛を可能とする原動力であると同時に、他者を気にかけるような態度ではなく、むしろ自らのエゴイズムによって他者を決定的に犯しうる二面性を秘めている。フロムの言う愛とは、人間が持つこの根源的な欲求を、配慮・責任・尊重という名の他者を考慮する倫理によって制御する技術なのである。

倫理/エロティシズム

冒頭においてフロムの言う愛を「自己が他者とは異なる自律した自己自身を保ったままで、他者と融合しようとする」態度と述べたが、これを二つのセンテンスに分けているのは意図的である。前者は倫理であるが、後者は本質的にはエロティシズムである。

生の根底には、連続から不連続への変化と、不連続から連続への変化とがある。私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体なのだ。だが他方で私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている。私たちは偶然的で滅びゆく個体なのだが、しかし自分がこの個体性に釘づけにされているという状況が耐えられずにいるのである。私たちは、この滅びゆく個体性が少しでも存続してほしいと不安にかられながら欲しているが、同時にまた、私たちを広く存在へと結びつける本源的な連続性に対し強迫観念を持ってもいる。

引用: ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(酒井健訳、ちくま学芸文庫、2004年、p.24-25)

禁止と侵犯を二つながらに体験することは稀にしか起きない。 エロティックなイメージ、あるいは宗教的なイメージは、ある者には何よりも禁止の振舞いを、他の者には何よりも侵犯の振舞いを惹き起こす。前者の禁止の振舞いは昔から存在する。後者の侵犯の振舞いは、少なくとも自然──禁止が対立していた自然──への回帰というかたちで、一般的になっている。しかし侵犯は《自然への回帰》とは違うのだ。侵犯は禁止を消滅させずに解除する。ここにエロティシズムの原動力が隠されている。

引用: ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(酒井健訳、ちくま学芸文庫、2004年、p.58、圏点は太字で記載)

つまりエロティシズムとは、不連続な個が禁止を侵犯することで失われた連続性を回復しようとする衝動である。禁止をそのままに暴力による侵犯によって解除し、自他の融合の果てに快楽を引き出そうとする。自他は完全な融合を目指し、個体は死へ向かいながら生を称揚する。

フロムは「融合」や「接続」という言葉を使うが、これをバタイユ的に説明すれば、単に不連続から連続へと移行する欲求といった意味で使用している。しかし彼がそれらの言葉を使うとき、暗に倫理を前提としている。フロムの言う愛では、自他の不連続性を保持しながら、彼らを一つに融合/接続させるパラドックスを認めており、いわば不完全なエロティシズムとも言える。しかしなぜこれが成立するのかというと、彼が倫理を完全には手放さないからである。責任において自己を確立し、配慮と尊重によって他者を受け入れると同時に、内側から湧き出る不可避でエゴイスティックな欲求に従い知の冒険を犯す。この運動において倫理が禁止として立ち上がり、倫理を解除しないまま同時に欲求も肯定するという、きわめて高度で微妙な関係の中に、彼は愛を見ている。

ノリ・メ・タンゲレ

先の二人の対比を考えるならば、もう一つの可能性──エロティシズムとは正反対に、不連続性を完全にそのままにする愛の形態もあると考えるのは自然ではないだろうか。実はバタイユが指摘している通り、キリスト教がそれなのである。

以下は「ヨハネ」二十章にてイエスが復活し、マグダラのマリアのもとへ姿を現したときの会話である。

 イエスは彼女に言った、「マリアよ!」。彼女は振り返り、彼にヘブライ語で言った、「ラポニ!」(つまり師)。
 イエスは彼女に言った、「私に触れるな。なぜなら私はまだ〈父〉のもとへ上っていないのだから。しかし、私の兄弟たちのところへと行きなさい、そして、私の〈父〉でありあなた方の〈父〉であり、私の神でありあなた方の神である者のもとへと私は上ってゆく、と伝えなさい」。

引用: ジャン=リュック・ナンシー『私に触れるな──ノリ・メ・タンゲレ』(荻野厚志訳、未來社、2006年、p.35)

イエスはこれまで自らに触れることを禁じも拒みもしなかったが、復活の朝において初めてそれを拒んだ。それは「私はまだ〈父〉のもとへ上っていない」からだと言う。

ナンシーが言うには、キリスト教における復活の概念とは、単に死者が蘇生することではない。復活とは、人類救済の確証および原理であり、そこにおいて人類は死を超えた永遠の生が約束されている。

復活という語は、「起き上がらせる」あるいは「立て直す」行為を意味している。死へと向かう生は、死において一度中断され、立て直し、別の広がりへと転換される。しかしこれは死を否定しているのでもなければ、何か別の意味=方向(サンス)へ向けなおしているのでもない。不死性の中の死という出来事において自ら起き上がる真理がそこにはある。イエスが「私は道であり、真理であり、生である」と語るとき、それは単なる譬えではない。彼の生そのものによって表象しつつ、同時に呈示する真理なのである。イエスの復活とは、その真理の現前化である。ただしこれは彼の現実の死を否定しているのではない。彼はすでにこの世の外にいるが、同時にこの世にいるのである。

復活したイエスはマグダラのマリアに「私に触れるな(ノリ・メ・タンゲレ)」と言う。文字通りには接触の禁止だが──例えばナイフの先に「触れるな」というように──ここには本質的に危険が含まれている。触れた先に彼女を傷つけてしまうのか、あるいはイエス自身を守るためなのか、そうした警告がある。しかしそれは同時に、彼女がイエスに「触れる」ことができる可能性を提示している。

「触れる」という言葉には、触れる主体と触れられる対象との境界を必要とする。つまり、触れることの条件に、同時に触れ得ない何かを含んでいなければならない。例えば何かに触れのであれば、そこではすでに完了してしまっている。触れている中でも同様である。触れようとするとき、人はまだ何も触れていない。過去も持続も未来もあってはならないのだ。何かに触れとき、そこにはただ境界の、時間以前の一点のみで、触れずに触れるのである。

「私に触れるな」と言うとき、逆説的にこの「触れる」ことを不可避にしている。触れることを禁ずるとき、すでに触れ得ない境界に、禁止に、ひいては真理に、触れてしまっている。しかしそれは真に触れているのではない。境界が面することなく、点において触れてもいない/いる〈触〉がそこにはある。

「私に触れるな」──〈触〉によって明らかになる真理は、それが到達不可能であるがゆえに、人間を突き刺し、後ずさりさせる。そこにおいて感じさせる感情こそが、真理の意味=感覚(サンス)そのものである。ノリ・メ・タンゲレ[Noli me tangere]の字義通りの意味は、「私に触れようと欲するな」である。真理に触れようとも、掴もうとしてもならない。そしてそれこそが、真に愛するものである。

ノリ[Noli]、それを欲すな、そのことを考えるな。それをするな、というだけではなく、たとえきみがそれをしても(…)、すぐさまそれを忘れろ。きみは何も掴んでいない、きみは何も掴むことはできないし、何も引き留めることはできない、そして、それこそが、きみが愛し、知らなくてはならないことだ。それこそが、愛の知のありようなのだ。きみを逃れるものを愛しなさい、去る者を愛しなさい。その者が立ち去るのを愛しなさい。

引用: ジャン=リュック・ナンシー『私に触れるな──ノリ・メ・タンゲレ』(荻野厚志訳、未來社、2006年、p.53)

信/疑

三者三様、それぞれが愛を通じて語り得ぬ何かを見ていたのは確かである。

フロムは個人的ないし社会的な現象としての愛を通して人間の本性を見ようとしていたが、一方で自己も他者も本当の意味で知り尽くすができない限界も見ていた。バタイユはエロティシズムを人類の普遍的な問題として捉えるが、エロティシズムの最高の瞬間は沈黙にあるとしている。ナンシーも〈触〉において真理に触れる/ないが、そこへはやはり到達不可能である。

そこへ能動的に関わろうとするのか、あるいは受動的な中で眼を開くのか、態度は別として、しかしそこにおいて愛は信/疑を要求している。結局のところ人間はどうしようもないほど不連続な個体であり、永久に孤独であることを強いられている。誠実さや暴力、触によって他者と関わろうとするが、そこには他者には至らないことへの不安や、欲望の反動としての苦痛や苦悩が残るばかりである。しかしそうであるからこそ、一切の理由も付け足さず、確証も得られないまま飛躍する信もまた残るのである。孤独と苦しみと疑念の中でなお、自らが孤独でないと信じること。人は信/疑の反復の最中に、おそらく人類にとって普遍的な、消えゆきながら光り得る何かを見いだそうとしている。

参考

  • エーリッヒ・フロム『愛するということ』(鈴木晶訳、紀伊国屋書店、2020年)
  • ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(酒井健訳、ちくま学芸文庫、2004年)
  • ジャン=リュック・ナンシー『私に触れるな──ノリ・メ・タンゲレ』(荻野厚志訳、未來社、2006年)

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