実存と構造、そして遊びへ

Published: 2025-06-16Updated: 2025-06-17

実存について

実存の保証

キルケゴールが考える絶望とは、神から与えられた自己、つまり措定された自己自身に関係するところの関係から抜け出ようとしたり、その関係を否定することである。例えば欲望まみれの自己自身であろうと欲することや、俗世間の評価の中で生きること、より一般化するならば、弁証法的なものの中で生き続けることこそが絶望なのだと言う。

絶望から免れるためには、上記の措定された全関係を肯定すること、つまり、自己が自己自身であり、かつあろうと欲するに際して、自己を自覚的に神のもとに基礎付けること、この信仰に至ることである。ここにおいて自己は真に自らを知り、そして完成する。

私はクリスチャンではないから、彼の言うことを感覚的に理解することも、またそうした道を歩むこともできない。ただ、このキリスト教的な神をもう少し広く取り、実存の保証としての神として捉えると、キルケゴールの見え方が少し変わる。実存主義の哲学者として挙げるには適切ではないが、例えば西田幾多郎は『善の研究』において、神とは実在の根底であり、宇宙とは神の表現であると述べている。

万物は神の統一に由りて成立し、神においては凡てが現実である、神は常に能動的である。神には過去も未来もない、時間、空間は宇宙的意識統一によりて生ずるのである、神においては凡てが現在である。アウグスチヌスのいったように、時は神に由りて造られ神は時を超越するが故に神は永久の今においてある。この故に神には反省なく、記憶なく、希望なく、従って特別なる自己の意識はない。凡てが自己であって自己の外に物なきが故に自己の意識はないのである。

(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫、1950年、p.227)

思うに神の統一とは、主観的ないし客観的に区別されたありとあらゆるものや対立から、新たに次の(「次」という言葉は時間を内包するので、永久の今において「次」と言うことはできないが、こうした矛盾を理解した上での次の)時間ないし空間を生成する運動である。

ここにおいて実在は保証されているわけだがしかし、この神が実存に対して「このように在れ」と語りかけてくることはないし、そもそもあるべきものの回答を持ち合わせているとも思えない。ここについて西田は以下のように語る。

善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るということに尽きて居る。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きて居る。而して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の欲より死して後蘇るのである(マホメットがいったように天国は剣の影にある)。

(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫、1950年、p.207)

真の自己を知る道筋は、自然を通してか、自己を通してか、その道筋はどちらもあり得る、というより本来どちらも宇宙であるのだが、とにかくそうしたものから神を通して見ようとする行為こそが、自己を神に基礎づけることなのではないかと思う。

保証なき実存

一方、実存の保証は存在しない考えもある。サルトルの無神論的実存主義なんかがまさにそれである。

サルトルにとっての実存とは、本質が先に決まっていたり、何かによって保証されているものではない。まず実存があって、そこから自らが何者であるか、つまりは本質を主体的にそして自由に構築できるのが人間であり、そしてこれがいわゆる「実存は本質に先立つ」である。

サルトルの実存主義は、いわば自らが神に成り代わる哲学であり、それによって発生する不安を「我々は自由の刑に処せられている」とし、主体的に引き受けることを目指している。しかし、もしキルケゴールはこうした態度の人を見たならば、必然性を欠いた可能性の絶望と言うだろうし、また仮に自己自身であろうと欲していたとしても、以下のように語るだろう。

この自己は、自己自身であろうと欲する絶望的な努力をしながら、かえって正反対のものに向かって努力しているのであって、それは実のところ自己とはならないのである。この自己の行動範囲である全弁証法のなかには、確固たる何ものもない、自己のあるところのもの、それはいかなる瞬間にも、すなわち永遠に、確固としてはいないのである。

(キルケゴール著、杉山好・田淵義三郎・桝田啓三郎訳、桝田啓三郎編『世界の名著 40 キルケゴール』中央公論社、1966年、p.507)

つまり、自己自身が構築した神は、自己自身の手によって自由気ままに改変できる脆弱なものであり、またそもそも自己自身で神を構築したとて、自己自身以上のものを自己自身に与えることはできないのだから、彼は努力をしているのかもしれないが、その結末に真に自己を知ることはなく、絶望し続けるということである。

構造について

超コード化から脱コード化 - アイデンティティの解体

神なしに自己を実現する営為はことごとく絶望に至ると思うわけだがしかし、ここで問が一つある。つまり、真の自己を知ることがどれほど現代に通じるのか。。

ところで、浅田彰は『構造と力』のドゥルーズ=ガタリの解説において、例えばキリスト教における神や、君主制といった絶対的な他者を一つ置き、そこにおいて人間を調停する構造を超コード化としているのだが、近代はこうした構造では説明できない。近代はこうした他者を据えるのではなく、むしろ解体する。その代わりに人間を一定の方向を走らせ、この運動エネルギーを持ってして、とにかく速く、遠くへ進もうとする。スタティックな差異の体系から、差異の体系そのものが差異を生むダイナミックな構造へ、これが近代の脱コード化と呼ばれるモデルであり、そして資本主義の本質なのである。人間の行動を貨幣に収束させることで、人間がエゴイズムに走ったとしても、一応の秩序は保つことができる。これが資本主義の構造上の特徴である。

これによって何が変わったのか。まず、絶対的な他者が解体されることによって、アイデンティティも同時に解体された。例えばボードリヤールの『消費社会の神話の構造』から見れば、アイデンティティとは何を消費したかの集積とみなされるようになった。ファッション、教養、娯楽、美容、健康、セックス、疲労、宗教など、挙げるときりがないが、消費社会においてありとあらゆるものは消費される記号でしかなく、人間はこの記号の消費の中でしか生きられなくなってしまった。

ボードリヤールのみがこう言っているのではない。ありとあらゆる文脈において、アイデンティティは解体される方向へと思想は動いている。つまり、キルケゴールの哲学にあったような自己を基礎づける神や尺度はすでに解体され、これにより絶対の他者を失い、エゴイズムが肯定された世界において、人間は共通のコンセプトが失われつつある時代を今生きているのである。

問に戻ろう。このように考えると、真の自己が何であるかというのは、多かれ少なかれ脱コード化の影響を受けているのであり、また構造上、自己のもとに基礎づける他者が成立するような世の中にはなっていないので、現実への対処として機能しにくくなっている、というより、そもそも問すら成立していないようにも思える。

逃走

しかしもちろん、だからといってこうしたものが不要になったわけでは決してないし、他人の信仰について「こうあるべき」なんてことを言いたいのでも断じてない。むしろ浅田はこの差異を踏まえた上で、「逃げる」のである。

浅田は特定のアイデンティティにこだわる在り方はパラノ的なものと指摘し、既存のパースペクティブや秩序から抜け出し、差異を差異として肯定する、よりスキゾ的でリゾーム的な在り方を是とし、以下のように述べる。

常に外へ出続けるというプロセス。これこそが重要なのである。憑かれたように一方向に邁進し続ける近代の運動過程がパラノイアックな競争であるのに対し、そのようなプロセスはスキゾフレニックな逃走であると言うことができるだろう。このスキゾ・プロセスの中ではじめて、差異は運動エネルギーの源泉として利用(エクスプロイット)されることをやめ、差異を差異として肯定され享受されることになる。そして、言うまでもなく、差異を差異として肯定し享受することこそが、真の意味における遊戯に他ならないのだ。

(浅田彰『構造と力』勁草書房、1983年、p.227、ルビは()の中に記載)

実存はより多元的に、より分裂してよいのである。特定の思想にこだわるのではなく、その枠から逃げ出して、サルトル的な在り方も、キルケゴールや西田的な在り方も一つの実存の中で共存して良いのである。他についても同様である。例えば性別も男女という枠から逃げて、男が女になっても、女が男になっても、全く別の性でも、さらには植物になっても鉱物になっても、そうしたトランスセクシュアルな在り方で良いのである。

なぜか? 脱コード化によって自己と神、男と女、左と右、そうしたあらゆる二項対立はすでに崩壊しており、何が絶対的な尺度なのか、何が正しく何が間違っているのかはその場その場の関係によってダイナミックに移り変わる。だから実存の在り方含め正しさを競ったところで意味がないし、現代において特定の何かに固執することは、差異を差異として否定することに繋がりがちである。そのため、超コード化におけるスタティックな在り方とは逆に、時々によって移り変わるこの差異を肯定し楽しむことが、現代における自己の充足と他者との共存の可能性がはじめて開くのである。

もちろん、浅田の言う逃げる在り方が全てではない。これはいわば芸術の実践のようなもので、万人のためのスタンスであるとは思えない。「ワグナーと手を切るにはシェーンベルクではなくケージをもってせねばならない(同上、p.229)」と述べているが、人間誰しもがケージなわけではない。これを唯一の可能性として据えるのはいかにも絶望を誘発しそうであるし、またこれも一つのパースペクティブであるから、ここから「逃げる」という選択も十分に成立し得る(これは結果的に浅田の在り方を肯定することになるのだが)。

逃走と倫理

ところで、例えば資本主義や言語といったシステムから人間は逃げられるだろうか? これは非常に困難を極めるだろうし、最悪法を破ることにも繋がる。逃げるといっても、完全な無法地帯の中で行われるのではなく、実際には現実に成立済みの秩序の上で行わなければならない。もし仮に他者性や法を無視して逃げようとしたならば、それは「逃げる」というアイデンティティに固執しているだけであり、これは逃げてはいない、差異を差異として見てはいない。

千葉雅也は『現代思想入門』にて以下のように語っている。

人間は生きていく以上、広い意味で暴力的であらざるをえないし、純粋に非暴力的に生きていくことは不可能であるということは、言わずもがなの前提なのです。だからこそ、(…)このいわずもがなの前提の上で、そこにいかに他者の倫理を織り込んでいくかということが問題になっているのです。
(千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書、2022年、p.53)

繰り返しになるが、逃げるとは既存の秩序を破壊し尽くすことではない。逃走とは以下のように行われるものだ(冒頭の「それ」とはハイアラーキー(ヒエラルキー)を指している)。

もちろん、それなしにはすべてが混沌と化してしまう以上、目的性のハイアラーキーを直接破壊しつくすわけにはいかない。従って、あなたの作戦は、地下で隠密のうちに運ばれる必要がある。いたるところに非合法の連結線を張りめぐらせ、整然たる外見の背後に知のジャングルを作り出すこと。地下茎を絡み合わせ、リゾームを作り出すこと。
(浅田彰『構造と力』勁草書房、1983年、p.22)

遊び

二項対立からの脱却に必要なものは、私の言葉で捉え直せば、知識の引き出しと遊び心である。

例えば何らかの解決が非常に困難な二項対立があったとしよう。この二つのどちらかが正しいだとか、弁証法的により高次なジンテーゼを考えることはもはやナンセンスな状況である。そこで、こういう遊び心はどうだろう。以下は『竹島問題をめぐる日韓密約に関する質問主意書』の抜粋である。

三 二〇〇七年三月二十日付読売新聞朝刊が、「『竹島領有 日韓が密約』韓国誌報道 一九六五年 双方が主張黙認」との見出しで、

「十九日に発売された韓国の月刊誌『月刊中央』は関係者の話として、竹島(韓国名・独島)の領有権を巡って日韓が一九六五年一月、自国の領土と主張することを互いに黙認し合う密約を交わしていたと報じた。

同誌によると、建設相時代に密約交渉を担当していた河野一郎氏の特命を受けた宇野宗佑自民党議員(後の首相)が訪韓し、韓国の丁一権首相(当時)に「解決せざるをもって解決したとみなす」と記された密約文書を渡した。

(『竹島問題をめぐる日韓密約に関する質問主意書』衆議院、https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a166144.htm 、2025年6月16日訪問)

注目したいのは「解決せざるをもって解決したとみなす」という一文である。竹島の問題は解決しない。だから、「解決したことにした」のである。

我々は問題に直面したときに、これを本質的に解決したいという衝動に駆られるが、こうした逃げ方も実に遊び心に富んだものだと思わないだろうか。もちろん、遊びといってもおふざけをしているのではない。これは思考停止でも欺瞞でも怠惰でもなんでもなく、むしろ思考し、検討し尽くした果てに生まれた一つの誠実な態度である。少なくとも安直な回答らしき何かに飛びつき、回復不可能な差異を生むよりはずっと賢い選択のように思える。

この逃げ方が生まれるのは、私がこの日韓密約について知っていたからであり、逆にこのことを知らなければこの逃げ方は取り得なかっただろう。つまり、知識の引き出しとは選択肢の幅であり、いわば手札の数である。そして状況と知識、また知識と知識の組み合わせが遊び心であり、この掛け算が逃げるバリエーションへと繋がる。

ここまではいわばデモンストレーションで、これが現実にどれだけ通用するのかは今のところ未知である。そのために私がやることはただ一つ。楽しく遊ぶことだ。

参考

  • キルケゴール著、杉山好・田淵義三郎・桝田啓三郎訳、桝田啓三郎編『世界の名著 40 キルケゴール』中央公論社、1966年
  • キルケゴール『死に至る病』斎藤 信治訳、岩波文庫、1957年
  • 西田幾多郎『善の研究』岩波文庫、1950年
  • ジャン=ポール・サルトル『実存主義とは何か』伊吹 武彦訳、人文書院、1955年
  • 浅田彰『構造と力』勁草書房、1983年
  • ジャン・ボードリヤール『消費社会と神話の構造』今村仁司・塚原 史訳、紀伊國屋書店、2015年
  • 浅田彰『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』筑摩書房、1984年
  • 千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書、2022年