キルケゴールが考える絶望とは、神から与えられた自己、つまり措定された自己自身に関係するところの関係から抜け出ようとしたり、その関係を否定することである。例えば欲望まみれの自己自身であろうと欲することや、俗世間の評価の中で生きること、より一般化するならば、弁証法的なものの中で生き続けることこそが絶望なのだと言う。
絶望から免れるためには、上記の措定された全関係を肯定すること、つまり、「自己が自己自身でありかつあろうと欲するに際して、同時に自己自身を自覚的に神に基礎づけること」(*)、この信仰に至ること。ここにおいて自らの実存を真に自覚することになる。
一方、実存の保証は存在しない考えもある。サルトルの無神論的実存主義なんかがまさにそれである。サルトルの実存主義は、いわば自らが神に成り代わる哲学であり、それによって発生する不安を「我々は自由の刑に処せられている」とし、主体的に引き受けることを目指している。
しかし、もしキルケゴールはこうした態度の人を見たならば、必然性を欠いた可能性の絶望と言うだろうし、また仮に自己自身であろうと欲していたとしても、以下のように語るだろう。
この自己は、自己自身であろうと欲する絶望的な努力をしながら、かえって正反対のものに向かって努力しているのであって、それは実のところ自己とはならないのである。この自己の行動範囲である全弁証法のなかには、確固たる何ものもない、自己のあるところのもの、それはいかなる瞬間にも、すなわち永遠に、確固としてはいないのである。
(キルケゴール著、杉山好・田淵義三郎・桝田啓三郎訳、桝田啓三郎編『世界の名著 40 キルケゴール』中央公論社、1966年、p.507)
つまり、自己自身が構築した神は、自己自身の手によって自由気ままに改変できる脆弱なものであり、またそもそも自己自身で神を構築したとて、自己自身以上のものを自己自身に与えることはできないのだから、彼は努力をしているのかもしれないが、その結末に真に自己を知ることはなく、絶望し続けるということである。
ただ、この批判はサルトルにとって無意味である。サルトルは有神論的ないし無神論的実存主義の両者には「実存は本質に先立つ」という共通のコンセプトがあることを指摘している。端的に言えば、これは人間の主体性から出発するという意味だが、無神論的実存主義はその名の通り、キルケゴールの言う神のような尺度は仮定しない。以下の文章における「本性」とは、上記にあった「措定された全関係」と読み替えられる。
実存が本質に先立つとは、この場合なにを意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。実存主義の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何者でもないからである。人間は後になつてはじめて人間になるのであり、人間はみずからが造つたところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。
(ジャン=ポール・サルトル『実存主義とは何か』伊吹 武彦訳、人文書院、1955年、p.18-19)
そうした本性を否定しつつ、人間は主体的に、そして自由に自己を作るのである。
では、上記二つのどちらが正しいと言うことができるだろうか。この問いに対して、浅田彰の『構造と力』の「コードなき時代の国家」の章から検討したい。この章では、人間という放っておくと何をするかよくわからない存在をいかに抑圧し、安定した文化として存立させてきたのかを、コード化・超コード化・脱コード化という三段階によって考察している。
まずコード化とは、モースの贈与の円環に見られるような、贈与と受贈の関係において発生する負い目を根拠とした圧力によって人を抑圧する構造である。例えば、ある人が別の人に何かを贈与した場合、受贈者はそこに負い目としての圧力を受ける。これにより受贈者は次なる贈与者へとシフトし、また別の人に贈与する。この伝播によって人の動きが制御される。
こうしたコードは、あらかじめ規定されていたものではなく、不均衡でダイナミックな過程において自然発生したコードである。そして、このコードが縦に積み重なったとき、つまり、こうしたコードを持つ共同体間に征服や支配という関係が成立したときに発生するコードが超コード化である。超コード化では、例えば王や神といった絶対的な他者をピラミッドの頂点に据え、臣下たちがそうした主に対し無限の負債を背負い、返済する形でシステムを安定させるコードである。絶対王政が敷かれた朝廷や宗教といったシステムがこれに該当する。
ただ、これまでのコード化・超コード化のシステムは、あくまで共同体内における圧力であり、その外に対しては効力を発揮しなかった。しかし、ここからグローバルに圧力をかけることを可能とした原理が登場した。それが脱コード化と呼ばれるものであり、そしてその唯一の文化が近代資本制である。
これまでの圧力は、贈与者と受贈者、主と奴といった、言わば位置関係を根拠にした力によって抑圧していた。しかし脱コード化では、こうしたスタティックな関係を解体し、人間をダイナミックに一定方向へ運動させ続ける力を加えることで抑圧する。資本主義においてその力の源泉となっているのは、資本としての貨幣である。貨幣によってすべての質的な差異を量的な大小関係へと還元し、人間のカオスティックで無際限な欲望を貨幣へと集約させることにより、否応なく人間を労働させ、統制する。これにより安定を図ることができる。
なぜいきなり実存的な問いかけからこの話題へと移ったのか。それは脱コード化がこの問いへの答えに繋がるからである。
脱コード化によって王や神といった絶対的な他者が解体されたと述べたが、これはキルケゴールが仮定していた全関係を措定する神はもちろん、サルトルが前提として置く自由や発展する歴史観というまた別の絶対的な尺度すらも例外ではない。これら含め人間が生み出した差異は、貨幣によって量的な運動へと還元され続ける。そこにおいてどちらが正しいかというポジション取りはもはやナンセンスなのである。
もちろん、だからといってこうした差異が無意味になったわけでは断じてない。むしろ浅田はこの差異を踏まえた上で、「逃げる」のである。
浅田は特定のアイデンティティにこだわる在り方はパラノ的なものと指摘し、既存のパースペクティブや秩序から抜け出し、差異を差異として肯定する、よりスキゾ的でリゾーム的な在り方を是とし、以下のように述べる。
常に外へ出続けるというプロセス。これこそが重要なのである。憑かれたように一方向に邁進し続ける近代の運動過程がパラノイアックな競争であるのに対し、そのようなプロセスはスキゾフレニックな逃走であると言うことができるだろう。このスキゾ・プロセスの中ではじめて、差異は運動エネルギーの源泉として利用(エクスプロイット)されることをやめ、差異を差異として肯定され享受されることになる。そして、言うまでもなく、差異を差異として肯定し享受することこそが、真の意味における遊戯に他ならないのだ。
(浅田彰『構造と力』勁草書房、1983年、p.227、ルビは()の中に記載)
実存はより多元的に、より分裂してよいのである。特定の思想にこだわるのではなく、その枠から逃げ出して、キルケゴール的な在り方も、サルトル的な在り方も一つの実存の中で共存して良いのである。他にも性別も男女という枠から逃げて、男が女になっても、女が男になっても、全く別の性でも、さらには植物になっても鉱物になっても、そうしたトランスセクシュアルな在り方で良いのである。
なぜかというと、脱コード化によって自己と神、男と女、左と右、そうしたあらゆる二項対立はすでに崩壊しており、何が絶対的な尺度なのか、何が正しく何が間違っているのかはその場その場の関係によってダイナミックに移り変わる。だから実存の在り方含め正しさを競ったところで意味がないし、特定の何かに固執することは、差異を差異として否定することに繋がる。そのため、コード化や超コード化におけるスタティックな位置関係とは逆に、時々によって移り変わるこの差異を肯定することが、現代における自己の充足と他者との共存の可能性がはじめて開くのである。
もちろん、浅田の言う逃げる在り方が全てではない。これはいわば芸術の実践のようなもので、万人のためのスタンスであるとは思えない。「ワグナーと手を切るにはシェーンベルクではなくケージをもってせねばならない(同上、p.229)」と述べているが、人間誰しもがケージなわけではない。これも一つのパースペクティブであるから、ここから「逃げる」という選択も十分に成立し得る(これは結果的に浅田の在り方を肯定することになるのだが)。
ところで、例えば資本主義や言語といったシステムから人間は逃げられるだろうか? もちろん不可能である。逃げるといっても、完全な無法地帯の中で行われるのではなく、実際には現実に成立済みの秩序の上で行わなければならない。もし仮に他者性や法を無視して逃げようとしたならば、それは「逃げる」というアイデンティティに固執しているだけであり、これは逃げてはいない、差異を差異として見てはいない。
千葉雅也は『現代思想入門』にて以下のように語っている。
人間は生きていく以上、広い意味で暴力的であらざるをえないし、純粋に非暴力的に生きていくことは不可能であるということは、言わずもがなの前提なのです。だからこそ、(…)このいわずもがなの前提の上で、そこにいかに他者の倫理を織り込んでいくかということが問題になっているのです。
(千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書、2022年、p.53)
倫理や良心の中身を問うことは哲学として正当だと思うが、一方でそれらそのものを疑うことは、コミュニケーションの前提を破壊している。逃げるとは、秩序やその基盤を破壊し尽くすことではない。逃走とは以下のように行われるものだ。
あなたの作戦は、地下で隠密のうちに運ばれる必要がある。いたるところに非合法の連結線を張りめぐらせ、整然たる外見の背後に知のジャングルを作り出すこと。地下茎を絡み合わせ、リゾームを作り出すこと。
(浅田彰『構造と力』勁草書房、1983年、p.22)
二項対立からの脱却に必要なものは、私の言葉で捉え直せば、知識の引き出しと遊び心である。
例えば何らかの解決が非常に困難な二項対立があったとする。この二つのどちらかが正しいだとか、弁証法的により高次な答えを考えることはもはやナンセンスな状況である。そこで、こういう遊び心はどうだろう。以下は『竹島問題をめぐる日韓密約に関する質問主意書』の抜粋である。
三 二〇〇七年三月二十日付読売新聞朝刊が、「『竹島領有 日韓が密約』韓国誌報道 一九六五年 双方が主張黙認」との見出しで、
「十九日に発売された韓国の月刊誌『月刊中央』は関係者の話として、竹島(韓国名・独島)の領有権を巡って日韓が一九六五年一月、自国の領土と主張することを互いに黙認し合う密約を交わしていたと報じた。
同誌によると、建設相時代に密約交渉を担当していた河野一郎氏の特命を受けた宇野宗佑自民党議員(後の首相)が訪韓し、韓国の丁一権首相(当時)に「解決せざるをもって解決したとみなす」と記された密約文書を渡した。
(『竹島問題をめぐる日韓密約に関する質問主意書』衆議院、https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a166144.htm 、2025年6月16日訪問)
注目したいのは「解決せざるをもって解決したとみなす」という一文である。竹島の問題は解決しない。だから、解決したことにしたのである。
我々は問題に直面したときに、これを本質的に解決したいという衝動に駆られるが、こうした逃げ方も実に遊び心に富んだものだと思わないだろうか。もちろん、遊びといってもおふざけをしているのではない。これは思考停止でも欺瞞でも怠惰でもなんでもなく、むしろ思考し、検討し尽くした果てに生まれた一つの誠実な態度である。少なくとも安直な回答らしき何かに飛びつき、回復不可能な差異を生むよりはずっと賢い選択のように思える。
この逃げ方が生まれるのは、私がこの日韓密約について知っていたからであり、逆にこのことを知らなければこの逃げ方は取り得なかっただろう。つまり、知識の引き出しとは選択肢の幅であり、いわば手札の数である。そして状況と知識、また知識と知識の組み合わせが遊び心であり、この掛け算が逃げるバリエーションへと繋がる。
ここまではいわばデモンストレーションであり、これが現実にどれだけ通用するのかは今のところ未知である。そのために私がやることはただ一つ。楽しく遊ぶことだ。