自己愛という無─ラ・ロシュフコーについて

Published: 2026-08-07Updated: 2026-08-07

はじめに

ここでは『ラ・ロシュフコー箴言集(以下、箴言集)』の概要を紹介するとともに、その形而上学的解釈と脱構築を試みている。というのも、『箴言集』は自己愛という概念の包摂性ゆえに、問答無用で他者をそこに基礎づけてしまうような、言わば全体性を帯びた書物として存在している。単に〈読む〉立場としてならそれでよいのかもしれないが、『箴言集』を〈使う〉立場としては危険である。他者を征服しないためにも、なぜ『箴言集』は全体性を帯びてしまうのか、その構造を把握し、解体する必要に迫られていた。これはそうした背景で生まれたラフスケッチに他ならない。

『箴言集』概要

われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない。

引用: 『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳、岩波文庫、1989年、p.11)

『箴言集』は、世間で言われている美徳──特にセネカを主とするストア派の哲学思想──の裏に、いかに人間の自己愛が隠れているかを暴露する500以上の箴言から成り立っている。

ロシュフコーにとっての自己愛は、単なる利己心やエゴイズムといったものに留まらず、「己れ自身を愛し、あらゆるものを己れのために愛する愛」(同上、p.147)と抽象的に定義されている。これは自己愛の性質によるもので、『箴言集』において自己愛は、自己愛自身にとって都合の良いように、他者を──挙げ句の果てには自己までもを──排してまで、情念や行動、感情といったあらゆるものをこしらえ続ける存在として描かれている。例えばロシュフコーは自己愛を自尊心、我欲、自負心、虚栄心などと呼び代えて使用することがあるが、これらは自己愛がそうした情念をこしらえた結果である。ゆえに自己愛は良くも悪くも人間の源泉であり、自己愛は自己愛のために、手段を選ばず存在し続ける。

箴言選集

まずは『箴言集』全体の雰囲気を掴むことから始めたほうが良いだろう。恣意的ではあるものの、序盤の箴言を三つほど簡単に紹介したい。

箴言1

われわれが美徳と思い込んでいるものは、往々にして、さまざまな行為とさまざまな欲(アンテレ)の寄せ集めに過ぎない。それを運命とか人間の才覚とかがうまく按配してみせるのである。だから男が豪胆であったり、女が貞淑であったりするのは、かならずしも豪胆や貞淑のせいではないのである。(同上、p.11)

ロシュフコーは基本的に、美徳は自己愛によって解体できると考えている。後ほど考察するが、欲とは自己愛の塊であり、それによって美徳が成り立っている。ゆえにこの美徳は、偽装された悪徳に他ならない。

箴言31

もしわれわれに全く欠点がなければ、他人のあらさがしをこれほど楽しむはずはあるまい。(同上、p.19)

現代社会におけるいじめ、現代のSNSにおける炎上騒動など、悲しいことにこうした自己愛が育まれやすい社会構造になっていることは否めない。しかし構造がどうであったとしても、おそらくはこうした問題はなくならないであろう。結局のところ、人間にとって楽しさは究極の動機づけになってしまうのである。

箴言39

欲はあらゆる種類の言葉を話し、あらゆる種類の人物の役を演じ、無欲な人物まで演じてみせる。(同上、p.21)

この箴言では欲となっているが、自己愛も極めて近い性質を持っている。自己愛の「豹変ぶりは変身の玄妙を凌(しの)ぎ、その精緻は化学を凌ぐ。人は自己愛の深淵の深さを測ることも、その深い闇を見通すこともできない」(同上、p.147)ほどである。欲にしても自己愛にしても、それを満たすための執着は測り知れないのである。

このように『箴言集』は悲観的なトーンで、あなたは自己愛によって支配されていると言わんばかりに挑発的な箴言を多く含んでいる。以降からは、自己愛の性質について掘り下げていきたい。

自己愛と欲望

自己愛には様々なバリエーションがあるが、ここでは最も根源的な情念、つまり欲望について考えたい。自己愛は欲望と結託することがあるが、自己愛は真の欲望そのものなのかと問われると、そう単純なものではない。

ここではヘーゲル/コジェーヴの欲望観と比較して考えてみたい。彼は自然的な対象を否定しようとする欲望によって自然的(動物的)自我が生まれるとされている。ここから非自然的(人間的)な自我が生まれるためには、非自然的な対象、つまり他者の欲望という存在しないものを欲望しなければならない。こうして人間的自我は、自然的/非自然的欲望から構成され、開示されることになる。自然的欲望は、対象の否定(例えば獲物を捕食するなど)によって充足するが、人間的欲望は端的に言えば、他者からの承認によって充足することが求められる。この承認を通してのみ、人間は初めて人間となる。

ロシュフコーの欲望も非自然的欲望と近い意味で捉えている。ロシュフコーは欲望を単なる物欲ではなくむしろ栄誉や名声への欲望として捉えているが、これはつまるところ他者からの承認であり、この点はヘーゲル/コジェーヴと同じ意味を持っている。しかし、欲望を人間の前提とするヘーゲル/コジェーヴと異なり、ロシュフコーは自己愛を人間の本性として据えようとする。

MP22 神は人間の原罪を罰するために、人間が自己愛を己の神とすることを許して、障害のあらゆる行為においてそれにくるしめられるようにした。(同上、p.179)

自己愛の作業仮説として神を持ち出すのはさておき、「私欲は自己愛の塊である」(同上、p.180)と述べた箴言もあることから、ロシュフコーにとって欲望は自己愛のバリエーションにすぎず、言わば自己愛が欲望に先立つものとして扱っている。

しかし、自己愛が欲望そのものなのかと問われればそうではなく、むしろ時として自己愛は禁欲と結託することもある。

(…)自己愛は、存在することしか念頭になく、たとえ己れの敵としてでも、とにかく存在さえしていればけっこうなのである。従って自己愛が時として、この上なく厳しい禁欲と結びついて、 己れを滅ぼすことに敢然と協力しても、驚くには当たらない。なぜなら自己愛は、一方で身を滅ぼすと同時に別のところで立ち直るからである。自己愛が己れの快楽を捨てたとわれわれが思う時でも、自己愛は単に快楽を中休みしているか、取りかえたに過ぎない。自己愛が敗北し、われわれが自己愛から解放されたと思う時でさえ、われわれは己れの敗北そのものに勝ち誇る自己愛を再び見出すのである。

引用: 『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳、岩波文庫、1989年、p.150-151)(削除された箴言MS1より)

結局のところ、自己愛にとって欲望も禁欲も程度の差でしかなく、自己愛の嗜好に応じて都合よくこしらえたものにすぎないのである。

自己愛と死

上記のように自己愛は様々なものをこしらえるが、では自己愛は死をこしらえるだろうか。というのも、自己愛が存在し続けることにしか関心がないということは、逆に言えば、自己愛にとっての敗北とは自己愛自身の死を意味する。つまり、自己愛は自らのために敗北を認めることがあるだろうか。そのためにロシュフコーの死の認識から順に考えていきたい。

『箴言集』の主な標的となっているのはストア派の哲学者であり、ロシュフコーの死への態度もこのアンチテーゼとしてある。そのため、まずは彼らが死についてどのように捉えていたのかを見てみよう。

例えばセネカの死に対する態度は、死を恐れないことである。そもそも死は誰にでも訪れるものであり、それが明日なのか先のことなのかを知ることはできない。しかしこのことを自覚するのであれば、死は突然の出来事ではなくなる。つまりもし今日死が訪れたならば、それは必然的に発生する死という出来事がたまたま今日であっただけということになる。ならば死を恐れる必要はない、生きている人間にとって相応しい行いをしようではないか。このようにセネカは、理性をもって死の恐怖を克服しようとする思想を持っている。

しかし、そんなことが本当に可能だろうか。例えば人気のない夜道を歩いているときに、手の包丁を光らせながらこちらへ迫ってくる人を見て、死の恐怖を理性的に克服できる人間が果たしてどれ程いようか。これに対するロシュフコーの回答をいくつか引いてみよう。

22 哲学は過去の不幸と未来の不幸をたやすく克服する。しかし現在の不幸は哲学を克服する。(同上、p.17)

23 死を解する人はほんの僅かである。人はふつう覚悟をきめてではなく、愚鈍と慣れで死に耐える。そして大部分の人間は死なざるを得ないから死ぬのである。(同上、p.17)

42 われわれはあくまで理性に従うほどの力は持っていない。(同上、p.22)

ロシュフコーは文学者である以前に軍人である。自らの命を懸けて戦地へ赴き、実際に重症を経験したことのある彼にとって、セネカの生死観は偽善として映ったろうし、現実になろうとする死に対して哲学が何ら意味を持たないことを彼は知っていたのだろう。だからこそ、以下の箴言を恐怖を持って残せるのである。

26 太陽も死もじっと見つめることはできない。(同上、p.18)

では、死に対して我々ができることは一体何であるか。ロシュフコーの回答が興味深いため、引かせていただく。

われわれは、せいぜい晴れやかな顔を保つために、死について考えるすべてのことを自分自身に言いきかせるのはやめる、というだけで満足しよう。そして、われわれも平然として死に近づけるなどとわれわれに信じさせようとするあの脆弱(ぜいじゃく)な論法よりも、自分の気質に期待しよう。毅然として死ぬ栄光、人びとに惜しまれることへの期待、立派な名を残したい欲求、生の悲惨から解放され、もう運命の気まぐれに支配されずにすむのだという安堵(あんど)、それらは無下(むげ)に斥けてはならない薬である。

引用: 『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳、岩波文庫、1989年、p.142)(箴言504より)(ルビは括弧の中に記載)

つまるところ、死について理性的に考え、死の恐怖を乗り越えようと言い聞かせるのではなく、むしろ自らの気質、つまり生まれつきの性質の方が薬になるということである。そこでは誇りや名残惜しさ、名誉など、ロシュフコーがこれまで暴露した自己愛が一転して肯定されている。もちろん、これにより死の恐怖に打ち勝つことは不可能だろう。しかし気休め程度の自己愛であったとしても、この恐怖へ少しでも立ち向かえるのならば、それは否定されるべきではないのである。

ところで、補足をしておくと、自己愛を単なる生存本能として捉えるのは安直である。思うに自己愛の死と人間の死は別物であり、自己愛が存在するためならば、自己愛は人間の生すら手放しさえする。そしてその最も極限の実行が自死である。

例えばセネカは『ルキリウス倫理書簡集』にて、良く生きることは善であるが、一方、悪く生きる危険から逃れるために善く死ぬことを否定していない。先のようにセネカは死を恐れない。そして恐れないならば、生の苦痛の中で自然の死を待つだけではなく、我々の心に適う人生の出口を理性が自由に選択できるべきだと考える。そうして選ばれた死は名誉であり、勇敢なものとなる。

運命が近づいてくる道筋はさまざまであっても、結果は同じであり、避けられない出来事がどの時点で始まろうとも違いはないことを我々に教えるのは、理性である。理性はまた、可能であれば自らの好みに従って死ぬよう我々に勧め、それが叶わないならば、自らの能力に応じて死に、自らに危害を加えるために手に入るいかなる手段をも掴み取るよう勧めている。「強奪によって生きること」は罪深いことだが、一方で、「強奪によって死ぬこと」はこの上なく高潔なことなのだ。

引用: Moral letters to Lucilius/Letter 70 - Wikisource, the free online library(2026年8月6日閲覧、私訳)

なるほど確かに彼は死んだ。しかし彼は死を勝ち取ったのではない。彼は、いや自己愛こそが、理性によって手放された生を通して、自らの高潔な生き様を勝ち取った。それが彼の自己愛の嗜好であった。

つまるところ、死を遠ざけるにしても接近するにしても、それは自己愛の都合によって持ち出された程度の差でしかない。どちらが選ばれたとしても、自己愛は生き延び続けるだろう。人間の生死は、自己愛が存在し続けるための道具にすぎないのである。

技術としての打算的配慮

ロシュフコーが美徳を自己愛によってラディカルに解体することで見出したものは、実は人間不信でも冷笑でもない。それは互いの自己愛を潰し合わずに共存するための、技巧的な配慮である。

自己愛は死をもってしても止まることを知らない。そしてもちろん、この性質は他者の自己愛も同様である。自己愛は自らが存在し続けるためであれば手段を一切選ばない。ゆえにもし両者の自己愛を無制限に最大化しようとしたならば、互いが衝突し、互いを犠牲にしてしまうだろう。

だからこそロシュフコーは、自らの自己愛を誇示するのではなく、むしろそれを隠し、他者に花を持たせることを選ぶ。この他者の自己愛への配慮こそが、結果的に自らの自己愛をも満たし、関係を長続きさせる方法だと考えていた。この技術としての配慮のコンセプトが最もよく示されているのが「交際について」の考察である。

人間にとって交際がどれほど必要かは言うまでもなかろう。すべての人がそれを欲し求める。しかしそれを楽しくし、また長続きさせる方法を講じる人はほとんどない。誰もが他人を犠牲にして自分の楽しみや利益を見つけようとする。一緒に生きるつもりでいる人びとよりも、常に自分自身のほうを大切にし、しかもほとんど必ずこの身勝手を相手にさとらせてしまう。これこそ人と人との交際を乱し、決裂させるものなのだ。相手より自分を大事にしたい気持は、あまりにもわれわれにとって自然で、これを棄て去ることは不可能だから、せめて隠す術ぐらいは心得るべきであろう。自分が楽しむとともに他人を楽しませ、他人の自己愛(アムール・プロプル)に配慮して、決してそれを傷つけないようにしなければなるまい。

引用: 『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳、岩波文庫、1989年、p.196)(ルビは括弧の中に記載)

しかし、結局これは自己愛に基づく打算的な処世術にすぎないことがわかる。他者への配慮は、自己の自己愛を長く安全に満たし続けるための計算の上にあるからである。しかし、これでよいのである。そもそも、ロシュフコーは自己愛そのものを否定しているわけではない。問題なのは、自己愛の排他性にある。自らの都合によって他者を貶めたり、従わせたり、支配したり、優位になろうとすること。そうした他者(ときに自己)の犠牲のもとで成り立つ充足に対して、それを自覚しているのかと彼は挑発する。しかしだからといって、自己愛そのものを否定してはならない。自己愛は良くも悪くも人間の源泉である。だからこそ他者の自己愛を止めないために、技術としての配慮が必要なのである。

では、この配慮を重視したロシュフコーはどういった人物であったのか。「レ枢機卿によるラ・ロシュフコー公の肖像」からは彼の意外な側面が見て取れる。レ枢機卿はロシュフコーの視野の狭さを欠点として指摘することはあっても、「彼の良識(ボン・サンス)、とくに思弁においてたいそうすぐれた良識は、彼の優しさ、取り入り上手、感嘆すべき人あたりのよさと相まって、彼の洞察力の欠如を、あの程度でなくもっと充実に、埋め合わせることができるはずであった」(同上、p.284)と言わせるほどの才気を認めていた。『箴言集』をもって他者を挑発する人物と同一なのかと疑ってしまうほどのこの矛盾は、以下の箴言による自覚と、そこから導かれる技術によって達成されたのだろう。

81 われわれは自分とのかかわりなしには何も愛することができない。自分自身よりも友達のほうが好きな時でさえ、われわれは自分の好みと自分の喜びに従っているに過ぎないのである。とはいえ、友情が真実で完全な友情になり得るのは、ひとえにこの、自分よりも好きだという気持によるのである。(同上、p.32)

83 人びとが友情と名付けたものは、単なる付き合い、利益の折り合い、親切のやりとりに過ぎない。所詮それは、自己愛が常に何かを得をしようと目論んでいる取引でしかないのである。(同上、p.33)

85 われわれはしばしば自分より有力な人たちを愛していると思いこむ。がしかしその友情は利欲だけから出たものなのだ。われわれが彼らに尽くすのは、彼らによいことをしたいからではなく、彼らからよくしてもらいたいためなのである。(同上、p.33-34)

235 友達の非運も、それが彼らに対するわれわれの友情を示すのに役に立てば、それだけでわれわれは非運のことはさっさと忘れてしまう。(同上、p.74)

410 友情にとって最大の冒険は、自分の欠点を友達に明かすことではない。友達の欠点を彼自身に見させることである。(同上、p.119)

紳士について

概要の最後にロシュフコーが考える理想の人物像として、紳士(オネトム)という概念を紹介したい。これがどういったものかを説明するより、先に箴言を見たほうがよいだろう。

202 にせものの紳士(オネトム)とは、自分の欠点を他人にも自分自身にも隠す人である。ほんとうの紳士(オネトム)とは、自分の欠点を知りつくし、それを率直に言う人である。(同上、p.64)

203 ほんとうの紳士(オネトム)とは、どんなことも鼻にかけない人である。(同上、p.64)

206 紳士たち(オネツト・ジヤン)の目に常住坐臥さらされていることを望んでこそ、ほんとうの紳士(オネトム)である。(同上、p.65)

MP61 紳士の資質(オネトテ)は、ある身分だけに特別なものではなく、広くすべての身分のものである。(同上、p.189)

これらを解体しつつ、詳細に見ていきたい。

率直

紳士は自分の欠点を知りつくし、率直に言える人物である。ところでロシュフコーが「率直」というとき、これに特別な意味を持たせている。

62 率直とは心を開くことである。これはごく少数の人にしか見出せない。ふつう見られる率直は、他人の信頼をひきつけるための巧妙な隠れ蓑に過ぎない。(同上、p.27)

ここでいうごく少数の人とは、紳士のことを指しているだろう。つまり紳士ではない率直さは、言わば他者からの承認の手段へと堕してしまう。では紳士の率直さ、つまり自分の欠点を素直に開放できるとはどういうことであろうか。端的に言えばそれは、他者からの信頼に対する応答である。

366 われわれは、自分に話をする人びとの率直さにどれほど不信を抱いていても、それでもやはり、彼らがほかの人に話す時よりも自分にはほんとうのことを言う、と信じているのである。(同上、p.108)

人間は他者への信頼と不信の間で生きているが、それでも最後は信へと飛躍する。ゆえに紳士は欠点をありのままに語る。彼らが信じていると信じているからこそ、本当のことを語る。紳士は勇気をもって自らの欠点を晒し、それに耐えるだけの強さを持った人物である。

謙虚・傲慢

紳士はどんなことも鼻にかけない、つまりは謙虚な人物である。しかし、謙虚は傲慢さと紙一重であると彼は述べている。

254 謙虚とは、往々にして、他人を服従させるために装う見せかけの服従に過ぎない。それは傲慢の手口の一つで、高ぶるためにへりくだるのである。それに、傲慢は千通りにも変身するとはいえ、この謙虚の外見をまとった時以上にうまく偽装し、まんまと人を騙(だま)しおおせることはない。(同上、p.79-80)

自己愛は傲慢さを満たす手段として、適切に謙虚を羽織る。そうした偽りの謙虚さは他者への服従と見せかけて、むしろ逆転し、自らが優位となる立場をひそかに狙っている。

もちろんこうであってはならない。では紳士の謙虚さとはどういったものか。字義通りの意味から察するに、それは以下のロシュフコーの言葉から、自らの至らなさを認め、他者の意見を歓迎する態度と言えるだろう。

私は正しい心と善良な気だてを持っているし、ほんとうに紳士(オネトム)でありたいと強く願っているから、友達から率直に欠点を注意されるのは、私にとってこの上もない喜びである。

引用: 『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳、岩波文庫、1989年、p.280-281)

欠点

ここまで「欠点」という言葉が何度か現れた。欠点と自己愛について鋭く指摘する箴言も多くあるが、同時に救いのある箴言も数多く残しているのは興味深い。

90 世間の付き合いでは、われわれは長所よりも短所によって人の気に入られることが多い。(同上、p.35)

154 運命は理性の力では直せない数々の欠点を改めさせる。(同上、p.51)

155 すぐれた面を持ちながら疎(うと)んじられる人がおり、欠点だらけでも好かれる人がいる。(同上、p.51)

251 短所でひき立つ人もいれば、長所で見劣りのする人もいる。(同上、p.79)

354 欠点の中には、上手に生かせば美徳そのものよりももっと光るものがある。(同上、p.105)

411 人は、欠点を隠すために弄する手段より以上に許しがたい欠点など、めったに持っていないものである。(同上、p.119)

つまり、ロシュフコーは欠点そのものが悪いとは思っていない。問題なのは、自らの欠点を見ないこと、見て見ぬふりをすること、欠点を認めないこと、あるいは開き直ること、総じて言えば、自らの欠点に対して誠実に接しない態度である。欠点は開かれている方がよい。その方がうまくいくことを彼は知っているのである。

457 ありのままの自分を見せるほうが、ありもしないものに自分を見せかけようとするよりも、ほんとうは得になるはずなのだ。(同上、p.130)

技術としての紳士

ここまでをまとめるに、ロシュフコーの紳士とは、ありのままの自己を認め、それを鼻にかけることなく、そのままに他者へ開き、応答し続ける態度と言えるだろう。ただし、ロシュフコーはその欠点を開示する行為も、一つの傲慢さへと回収される可能性を示唆している。

184 われわれが自分の欠点を告白するのは、その欠点のせいで人から悪く思われた分を、率直さによって埋め合わせるためである。(同上、p.59)

この箴言からいえるのは、ロシュフコーは紳士を目指すが、それが同時に自己愛であることを自覚していることがわかる。そうであるならば、彼は打算的な戦略を取っているといえることになる。

しかしこれも技術としての配慮と構造は同じである。自己愛は人間の源泉であるがゆえに、人は紳士たらねばならない。そうでなければ人は、自覚なき偽装された悪徳に塗れてしまう。紳士とは、そのようにならないため、己自身をありのままに開き続け、そして磨き続ける技術となろう。

365 生まれつきのままでは欠点になりさがる長所があり、また、あとから身につけたのでは決して完璧になりえない長所がある。たとえば、富や信頼の使い方について賢くなるには理性によらねばならないし、反対に、善良さや勇気は生まれつき与えられなければならない。(同上、p.108)

自己愛の形而上学

ここまで『箴言集』の概要を見てきたが、『箴言集』の自己愛に基づく人間解釈は、人間のすべての営為を説明できてしまうようにすら見える。田中仁彦は『ラ・ロシュフーコーと箴言 : 太陽も死も直視できない』の中で、当時から現代にいたるまで『箴言集』を非難することはあっても、間違っていると批判した人はいなかったと述べている。この著書自身も『箴言集』が真実であると疑わない、むしろ『箴言集』を非難するのは、この真実を認めたくないことの裏返しであると捉えている。

はっきり言って、こうした態度は『箴言集』の全体性をもって他者を征服していることと同義である。『箴言集』が真実の書物かのように見えるのは、対象(つまり他者)を信念に従わせたがゆえに独断的に真実であると誤認しているにすぎないことを、彼は自覚していないのである。

ところで、『箴言集』は形而上学として提出された書物ではなく、ロシュフコー自身による観察から箴言へと落とし込んだモラリスト文学作品である。ゆえに形而上学的に批判することは本質的ではないのだが、のちに述べるが、『箴言集』を真としてしまった場合、その主観において反証不可能となってしまう構造を有している。そのためここでは、あえて形而上学的に批判し、この誤認の構造を理解することを目的とする。

この問いに結論を与えるには少し遠回りをしなければならないが、まずは以下の箴言から始めたい。

MP25 われわれがこれほど簡単に他人に欠点があると信じこむのは、人は自分にとって願わしいことなら簡単に信じるものだからである。(513)

引用: 『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳、岩波文庫、1989年、p.180)(MP: 没後刊行の箴言)

この箴言は読者にもそうだが、同時にロシュフコー自身も例外ではいられない。これまで彼が『箴言集』で行ったこととは、自己愛をもって美徳を解体し、他者へ暴露すること。言い換えれば、人間の自己愛による欠陥を暴露し、それを信じているのである。ではロシュフコーが信じる「願わしいこと」とは何か。それは自己愛以外ありえない。人間は自己愛に基づいて行動するという信念が、ロシュフコーにとって願わしいものとなる。

自己愛の生成論的解釈

では、ここまで散々述べてきた自己愛とは一体何であっただろうか。改めてロシュフコーによれば、自己愛は「己れ自身を愛し、あらゆるものを己れのために愛する愛」(同上、p.147)だったが、これを解剖するにあたりロシュフコーの自己/愛についてそれぞれ確認したい。

『箴言集』において自己は二つの特徴が一貫している。一つは、自己は固定的でないこと。もう一つは、自己は知りつくせないことである。ここでは二つの箴言を確認したい。

135 時として人は、他人と自分が別人であるのと同じくらいに自分自身と別人になる。(同上、p.46)

295 われわれは己を欲するところを知りつくすには程遠い。(同上、p.91)

「なる」とは変化である。自己が変化するとき、それは自己自身と別人にすらなり得る。そうした劇的な変化である。そして同時に、自己は知っても知らない自己が無限に溢れ出る、言わば深淵のようなものである。

しかし、こうした変化と深淵の性質を兼ね備えたものを我々はすでに知っている。つまり自己愛である。

自己愛は己れの外では決して落ちつくことがなく、自分以外のことがらには、あたかも蜜蜂が花にとまるように、自分に都合のよいものを引き出すためにしか心をとめない。自己愛の欲望ほど抗(あらが)いがたいものはなく、自己愛の意図ほど秘められたものはなく、自己愛の行動ほど巧妙なものはない。その柔軟さは筆舌に尽くし難く、その変貌ぶりは変身の玄妙を凌(しの)ぎ、その精緻は化学を凌ぐ。人は自己愛の深淵の深さを測ることも、その深い闇を見通すこともできない。

引用: 『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳、岩波文庫、1989年、p.147)(ルビは括弧の中に記載)(削除された箴言MS1より)

このように考えると、自己とは自己愛の所与であることがわかる。つまり、自己愛が自己に先立っていなければならない。

愛についても考察しよう。四つの箴言を引かせていただく^1

175 変わらぬ愛とは一種の絶え間ない心変わりである。つまりわれわれの心が、愛する人の持っているすべての美点に、ある時はここが好き、ある時はあそこが好きというふうに、次々に惚れこんでゆくのである。だからこの変わらぬ心は、同じ一人の相手に局限され、その人の中だけに閉じこめられた心変わりにほかならないのである。(同上、p.56)

68 恋を定義するのは難しい。強いて言えば、恋は心においては支配の情熱、知においては共感であり、そして肉体においては、大いにもったいをつけて愛する人を所有しようとする、隠微な欲望にほかならない。(同上、p.29)

MP24 われわれの愛する人びとがわれわれを支配する力は、ほとんど常に、われわれ自身が自分を支配する力よりも大きい。(同上、p.179)

374 自分が恋人を愛すのは彼女への愛情からだと信じている男がいたら、思い違いもはなはだしい。(同上、p.110)

心変わりする愛とは、愛する相手は変わらずとも、好みが相手に合わせて変わっていく愛である。ここに箴言68/MP24を綜合すれば、愛するとは、自己が他者──つまり他者の自己愛──を愛しながら、自己の自己愛を他者の自己愛に合わせて、自身のものとしてしまうような行為である。愛の支配力とは、自己愛が他者の自己愛に合わせて変化し、自身を上書きしてしまった結果に他ならない。そしてその愛の源泉は、箴言374を見るに、やはり自己愛にある。

では自己を愛するとは何であるか。ここまでを踏まえるに、それは自己が自己──つまり自己の自己愛──を愛し、自己の自己愛を自身に合わせて、自己愛自身のものとしてしまうような、自己愛から差し出された行為である。つまりこれは生成である。自己愛は自身を愛している。それゆえに自身を生成し、結果として自己を差し出すことになろう。

自己愛の愛する対象が、他者の自己愛であろうと自己の自己愛であろうと、生成されるのは自己愛それ自身であり、つまり愛するとは、自己愛の生成を意味することになる。ロシュフコーが自己愛は「己れ自身を愛し、あらゆるものを己れのために愛する愛」(同上、p.147)と語るとき、実は自己愛を定義しているのではない。これは自己愛の、己のために自他を愛して、己自身を生成する運動を指しているに他ならない。

[^1] 箴言68を訳者は「恋」から始めているが、これはフランス語のl’amourの訳であり、ニュアンスとしては「愛そのもの」と捉えらるのが一般的と思われる。

自己愛というエクリチュール

しかし、自己を愛することによって生成される、自己/愛ではない自己愛そのものは一体なんであろうか。『箴言集』を振り返れば、我々は先の自己愛の運動の引用を含め、自己愛を外延的にしか把握できていない。つまり、ロシュフコーは「これこれは自己愛である」や「自己愛にはこれこれの性質がある」と述べても、「自己愛とはこれこれである」という定義を明晰に語っていないことに気づく。そして我々が自己愛に定義を与えようにも、そこでは箴言という外延的な性質しか得られないのだから、そこから推論する定義もまた外延的にならざるを得ない。なぜロシュフコーは外延的に自己愛を語るのか、いや、外延的にしか語れないのか

理由はシンプルである。この章を始めるにあたり箴言MP25を引用したが、そこにあったのは、ロシュフコーは自己愛を願わしいものとして信じていることであった。つまり、ロシュフコーは自己愛を信念によって保証しているのであり、ゆえに彼は自己愛を直接語ることができず、箴言を通して外延的に浮き彫りにするしかできない。言ってしまえば自己愛は、無から生まれた無である。

別の角度からも考えてみよう。ロシュフコーがあらゆる美徳の裏に自己愛を発見するためには、自己愛に先行して美徳が形而上学的秩序の中で成立していなければならない。今回で言えば、セネカを代表とするストア派の哲学思想がそれである。つまり逆を言えば、最初から美徳が成立していなければ自己愛は成立できない。言い換えれば、自己愛の誕生は無から始めなければならないのである。そのためロシュフコーが新たに自己愛を提示するためには、自己愛という〈ない〉ものを、無から信念によって〈ある〉ものかのように生み出さなければならない。その生み出す手段こそが箴言による外延的な記述に他ならない。だからロシュフコーが提示した自己愛の定義が存在証明ではなく実は性質の記述になってしまったのはある種当然で、つまり自己愛の存在をより堅牢にするはずの箴言が、むしろその箴言自身の手により、あるともないとも言えないあいまいさを逆に証明してしまっているのである。

もしこのように自己愛が美徳に基礎づけられるのであれば、美徳自身もまた何らかの形で無から生まれ、別の何かに基礎づけられていることになる。つまり自己愛だけではなく、美徳そのものの存在を語ることも不可能になってしまう。というよりそもそも、形而上学的概念の意味を固定化することは上記で見てきたように本来不可能であり、その概念は相互依存によってのみ成立している。だからロシュフコーが語る自己愛も、ストア派哲学者が語る美徳も、結局のところは、特定の視座から信念によって無を真理かのように固定化した体系であると言わざるを得ない。

ここでようやく本来の問いに戻ることができる。なぜ『箴言集』による人間解釈は、人間のすべての営為を説明できるかように誤認してしまうのか。答えは単純である。つまり、『箴言集』がそう説明できるよう自己愛を基礎づけ、信念により固定化し、対象(他者)を一義的に判断しているに他ならないからである。彼が見ているのは、自己愛を通して構成した彼の〈表象としての他者〉である。なるほど確かに認識の上では真実である、いや真実しか映る余地はない。ゆえにこの信念に対して反証したところで無意味である。しかし『箴言集』は、ありのままの他者を晒してはいないし、晒すこともない。なぜなら自己愛は無だからである。こうして『箴言集』は、自己が告発した〈表象としての他者〉を他者へ差し出し、征服を目論む自己愛=無の書物となる。

差し出された自己愛=無

では、『箴言集』そのものは無意味な書物であっただろうか。もちろん、全くもってそんなことはない。そもそもロシュフコーは哲学者ではなくモラリストであり、文学者である。そしておそらく、彼は『箴言集』が形而上学的に無意味な書物であることを理解しているはずである。

先の通り、自己愛は語られているようで実のところ、徹底して無である。『箴言集』を読んで自己愛の意味を明晰に語ることができる人は、ロシュフコー含め存在しないだろう。しかしこの自己愛の設計は、おそらく確信犯である。というのも、これまで登場した「MS1 自己愛(アムール・プロプル)とは、己れ自身を愛し、……」(同上、p.147)という自己愛の肖像となる箴言は、第二版の時点で早々に削除され、また自己愛の正当性を神に求める箴言「MP22 神は人間の原罪を罰するために、……」(同上、p.179)も刊行されることはなかった。他の自己愛に関係する箴言も、同様に外延的に性質を述べる箴言しか存在しない^2。これが論理的なのか直感的なのか定かではないが、少なくともロシュフコーが『箴言集』における自己愛が無になるよう意図的に設計したことはここから言えるだろう。

ちなみに『箴言集』の解説にて二宮フサは、MS1の箴言が削除された理由として、文章の長さや文章展開が他の箴言と比べ異質であることを述べている。おそらくそれも含むが、なぜ長文の箴言を削る必要があったのかの理由は、やはり自己愛を無にするためであろう。もともとMS1は『当世散文小品傑作集・第三部』の「自己愛の肖像」という名で寄稿された文章であったが、『箴言集』が書かれた今、自己愛そのものを詳細に語る必要がなくなったのである。

では、この無によってロシュフコーは本質的に何を差し出したかったのか。思うにそれは、自己愛の意味=方向(サンス)が空虚であるがゆえに、代わりに読者へ充填を強いる構造である。『箴言集』は読み手の感覚=方向(サンス)と共に完成する書物である。ロシュフコーは意味=方向(サンス)によって挑発するのではない、読者の感覚=方向(サンス)をもって挑発しようとする──きみが埋めたまえ。その情念こそが、きみの自己愛に他ならない。

[^2] 箴言2、3、4、13、46、83、88、138、139、196、228、236、247、261、262、279、312、324、339、364、383、494を参照。

参考

  • 『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳、岩波文庫、1989年)
  • 田中仁彦『ラ・ロシュフーコーと箴言 : 太陽も死も直視できない』(中公新書、1986年)
  • コジェーヴ『ヘーゲル読解入門(上):『精神現象学』を読む』(上妻精・今野雅方訳、白水社、2025年)
  • セネカ『人生の短さについて 他二篇』(茂手木元蔵訳、岩波文庫、1980年)
  • Moral letters to Lucilius/Letter 70 - Wikisource, the free online library(2026年8月6日閲覧)
  • エマニュエル・レヴィナス『レヴィナスコレクション』(合田正人編・訳、ちくま学芸文庫、1999年)
  • 高橋哲也『デリダ』(講談社学術文庫、2015年)

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